2012年5月16日水曜日

[小説]ニートはBARにいる

三、四両ほどの短い電車からホームへと降りてゆくまばらな乗客たちは、みな疲れきった顔をしていた。
改札を抜けると、タクシーの排気ガスと春の夜の空気が混ざり合った匂いがする。
長い一日が終わり、夜の街が目を覚ます前の、独特な匂いだった。

ニートはパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま俯き加減に歩いた。

駅前の広い通りを少し入った所に、ぽつんと一軒、バーが佇む。

「BAR Bordeaux」

蔦の絡まった扉に掛けられた木製の看板にはイタリック体の店名が焦がしてあり、
それを今にも消えそうなランプの灯りが照らしていた。

「ボーデュアウクス。」

そう呟くと、ニートは建てつけの悪い扉に手をかけた。

「カランコロン」
「いらっしゃいませ。」
「」
「こちらのお席へどうぞ。」
「どうも。」

薄暗い店内にはどんよりと沈んだ空気が淀み、オーディオが流すサックスの音色はひどくくすんで聞こえた。
カウンターの椅子に腰掛けると、バックバーにきちんと並べられた酒瓶を眺めた。
磨かれたグラスは眩いほどに透明で、おしぼりのタオルからは何かの良い香りがする。
ニートは感心した。

苺を二粒とチーズを二切れ、それからクラッカーを一枚。
バーテンダーはそれらを手際よく皿に盛り付けてニートの前に出した。
ニートは一瞬「まだ注文していないのですが」と伝えようとして、やめた。
きっとバーではお決まりの、粋な何かなのだろう。

ジントニックを注文すると、ニートは煙草に火を付けた。
ゆっくり煙を吸い込むと、カウンターの向こう斜め上の、暗い宙に向かって吐き出した。
天井に埋め込まれたダウンライトの光に白く拡散する煙を睨み、ニートは何か思おうとしたが、何も思いつかなかった。

「ライムは搾りますか?」
「ええ。たっぷりと。」
「今日はお仕事で?」
「いえ、今日は休みでした。」
「いいですね、平日お休み。」
「はは。」
「しかし、まだ五月というのに暑い。まったく、今日は皆半袖でしたよ。」
「半袖?」
「ええ。」
「今日はずっと家にいたもので、気付きませんでしたよ。」
「それがいい。せっかくのお休みです。」
「はは。」

ジントニックを一気に半分ほど飲んだ。ライムを搾りすぎたなと後悔した。

ニートは二本目の煙草に火をつけると、改めて店の中を見渡した。
十席ほどあるカウンターの一番奥では、サラリーマン風の男が黙ってバーボンを飲んでいる。
グラス半分のジントニックで少し良い気分になっていたニートは、残りの半分を一気に飲み干すと男に話しかけてみた。

「その腕時計は、どこのですか?僕のと同じかもしれない。」
「タグ・ホイヤーです。」

会話はそれで終わった。

ニートは気を取り直して三本目に火をつけ、バーボンを注文した。
バーテンダーがアイスピックで氷を突いているのをぼんやり眺めながら、結露した空のグラスを指で撫でる。

ニートは、猫のことを思い出していた。
昨日、ニートは自宅近くの神社へ行った。用は無い。なんとなく、だ。
石段に腰掛けて何をするでもなく煙草をふかしていると猫がやってきた。
白くて、大きな猫だ。白くて大きいこと以外の特徴は忘れてしまった。
猫はニートの側まで近寄ってくると、大きなあくびを一つしてから、

ここまで思い出したところでバーテンダーがバーボンのオン・ザ・ロックを差し出した。

「ありがとう。」

ニートはそう言うと煙草の火をもみ消してそれを一口飲んだ。
猫のことについて、それ以上思い出す気はもう失せてしまった。
猫のことに限らない、大抵のことがそうだ。
ニートはニヒルな苦笑を浮かべた。

「カランコロン」

扉が開いて、一人の女が店に入って来た。
女がニートの二つ隣の席に座ると、シャンプーと香水と、女自身の甘い匂いが混ざって香った。
ニートは勃起した。

「スティンガー」

女はくすぐったくなるほど色気のある声でスティンガーをオーダーした。
ニートのスティンガーミサイルはアウト・オブ・オーダーだった。

ニートはバーボンを一気に飲むと、とびっきりキザな発音で「Shall We Dance?」と意味も無く独りでつぶやいた。
それから幾度となく「All right, All right」とつぶやき、バックバーに並んだカンパリのビンに向かってウインクをしてから、女に話しかけた。

「女性が一人でスティンガーだなんて、とても素敵だ。君の『毒針』、ずいぶん鋭いと見たね。」

まず第一に、ニートは無駄に洋画を見すぎるというきらいがある。
第二に、実際の女性経験があまりにも少ない。
そして第三に、かなり酔っていた。

しかし振り向いた女を見て、事態がそれほどAll rightではないことをニートは悟った。
彼女は大変な不細工であったばかりでなく、自分よりも二十は年上であるように思われた。
年不相応に身に纏った派手な洋服と化粧は、およそまがまがしいと言うべきものであった。

「ふふ。ねぇ、わたし、いくつに見える?」

タグ・ホイヤーのサラリーマンとバーテンダーが顔を見合わせた。

ニートは、死んだ。



END


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